趣文共賞 How to Shame a Friend into Lending You a Book

Note: This post is part of a series where I reproduce random sources that I find interesting, with minimal annotation and commentary. Punctuation and translation (if given) are done by me unless otherwise stated. Corrections and comments are greatly appreciated.


This is a letter by the mid-Ming literatus and official Gu Qing 顧清 (1460-1528) asking an unnamed friend to lend Gu some books from his collection. I have read other letters that either request or decline book-lending, but this is my first time to see one that takes the form of such a carefully-structured literary composition. As you can see, Gu starts with a long discussion on the “lendability” of books before finally making the actual request. His cunning praise of the friend at the end makes me wonder how any recipient of such a letter could have declined his request. Now the question to me is, did Gu Qing write the letter in this way really to persuade his friend into lending him the books, or is this more of a literary exercise, where Gu is showing off his writing skills?

Source: Gu Qing 顧清, Dongjiang jiacang ji 東江家藏集, Siku quanshu edition, 25.3a-4b.


與友人借書書

某聞天下之物。有可以與人共者。有不可以與人共者。有可以與人。而取之隨盡。用之隨竭者。有可以與人。而取之未嘗盡。用之未嘗竭者。離朱之於目。師曠之於耳。子都之於色。盖天實賦之。雖其所親愛。不可得而與之也。非惟不能與。亦不可得而受也。輿馬衣服貨財可以與人矣。而其蔵有限。其用有窮。夫人而皆惜之。不可得而與人。人固絶意於求之矣。可以與人。而易盡且窮。則彼固靳焉。而吾亦難以為辭。

故夫取之而不窮。用之而不竭。而可以與人者。惟書然也。天地間造化之精藴。唐虞三代之治功。孔子孟軻門人弟子之所問答。見於經。著於四書。荀揚之論述。賈董之敷對。遷固之史。韓栁李杜之詩文。濓洛闗閩諸大儒明道闡教。佐佑六經之作。如衣之於寒。如食之充腹。如燈燭之於瞑途。聾者以之聰。瞽者以之明。誠天下之至寳也。

然自有是物以來。授之者凡幾人。受之者凡幾軰。其得而設施運用。建勲業而著聲名者。不知其幾。而其説至今存也。故與之者可以無吝容。求之者可以無難色。足下其明乎此。則某有大願於左右矣。某不佞。少嘗好學。而陋於見聞。聞人有古書。必百方求之不少置。人見其然也。亦多應之。凡今所竊知。大半非家之有。其聞而未識者。固闕然也。

入京師則聞有君子者。家多書而方竊第未及於政務。欲稍假其副而讀之。則又以交淺。恐不察其所以來而靳焉。盖忸怩趦趄。不敢進而請者累月。既而喟曰。以某之聚書如此。而不知其可借與可以借人而無傷。豈理也哉。踵門有期。先此道意。足下其裁察之。

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4 Comments

  1. 王博士尊鑑:
    垂示古文,並斷句讀,與人共享,尊意甚善!顧氏云「取之而不窮,用之而不竭」,有不誣矣。
    惟其第三段云:「聞人有古書必百方求之不少置人見其然也亦多應之」,疑「置」後宜句。不少置,即毫不捨也。嵇康《與山巨源絕交書》云:「足下若嬲之不置,不過欲爲官得人,以益時用耳」,亦此意歟。若被採納,幸甚!會有不妥,敬希見諒!耑此,順頌
    文安
    學退敬上

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  2. 学退先生

    詳細なコメントどうも有り難うございます。せっかく綺麗な漢文でのお手紙をいただいたところ申し訳ないですが、お返事は日本語でさせていただきます(笑)

    ご指摘いただいた箇所は早速修正しておきます。ここは読んでいてどうしても「置」の意味が分からなかったので、多分無理だろうと思いながらも勝手に「置」を「至」として読んでしまいました。先生の説明と例で大体の意味は理解出来たような気がしますが、文法的に「少」がどんな役割を果たしているのかやはり上手く解釈できません。現代中国語で言うと「一点也不放」(少したりとも置かない/放さない)といった感じなのでしょうか。

    かなり初歩的な質問ですみません。私は古典中国語の文法を系統的に習ったことはないので、史料を読む時は「感じ」に頼ってしまうところがあり、時々細かい箇所の構成をよく説明出来ない場合があります。いつか漢文訓読法をしっかり勉強すれば少し良くなるかと前から思っているのですが、未だに時間が取れていないのが残念です。

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  3. 『漢語大詞典』では、「不少」を「毫無」と釈し、 《史記·伯夷列傳序》:“余以所聞由、光義至高,其文辭不少概見,何哉?” の例を載せます。否定の副詞「不」の下に、副詞「少」を置き、否定を強めるはたらきをしています。「一点也」というのと同じです。

    「求之不少置」とは、「求之」の程度・様態が「不少置」であるということでしょう(現代漢語の補語に類似)。様態補語の場合は、現代でも「他来得很晚」というように、形容詞に強調の「很」をつけますよね。ここでは「求之不置」といっても問題ないのですが、程度・様態の強調のために「少」を用いたと解釈しました。陸游《渭南集》に「清暇之燕,展玩摹搨不少怠」とあるそうです。これも「展玩摹搨」の様子が「不少怠」ということだと考えます。

    古典語の文法は、中国の文法書で勉強なさってはいかがですか。たとえば、周法高『中国古代語法』造句編上、156-190に、補語についての詳しい説明があります。

    また、『古代漢語虚詞詞典』というものもお手元にあるとよいと思います。副詞「少」の項目に《元史》の「色不少變」の例が載っていました。

    日本に留学なさるとか、あるいは日本漢文を読みたいということがなければ、あまり訓読は必要ないのでは?

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  4. とても詳しい解説本当にありがとうございました。『漢語大詞典』に載っているものを事前に調べもしないで大変失礼しました。今まで虚詞は詞典で調べられるものだというう意識が薄かったのですが、『漢語大詞典』と『古代漢語虚詞詞典』にある用例を確認してみたところ、どうして疑問をもっていたのか分からなくなるほど、よく理解出来ました。以後きちんと詞典を活用するようにします。

    それから文法書のご推薦どうもありがとうございます。前からどの文法書を使えば良いのか掴めなかったので、これはとても助かります。私が訓読を勉強したいのは日本漢文を読めるようになりたいという理由もありますが、主には古代中国語の理解に役立つのではないかと思うからです。今はまだ訓読の基礎を少しかじったくらいなのでこれは全くの間違っているかかも知れませんが、訓読は漢文を外国語として向き合っている点では現代中国語を介して古代中国語を理解する場合よりも一字一句に注意を払っているのと同時に、原文の漢字をそのまま残して日本語に訳すわけなので英訳などと比べるとより多く原文のニュアンスを残している特徴があると思います。つまり私にとっては中国語による直読と英訳の中間的存在で、うまく使えば両者それぞれの不足を補ってくれるかもしれない、という期待があります。

    例えば上の「不少」は訓読すると「少しも‥‥せず」となるようですが(『古代漢語虚詞詞典』の近くに国書刊行会の『漢文解釈辞典』が置いてあったので調べてみました)、こう読むと文の構成がはっきり見えて、原文の字をそのまま使っているため『漢語大詞典』の「毫無」よりも私には分かりやすいです。もっと現実的には訓読の文体に慣れておくと日本語文献を読むとき引用部分が読みやすくなるというメリットもありますが。

    自分の適当な考えばかり、長々とすみませんでした。あらためて、丁寧なご説明をいただき、お礼申し上げます。

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